「上弦の鬼=病気説」はもう古い。なぜ猗窩座は”それでも”地獄へ行かなければならなかったのか

上弦の参・猗窩座の加害者心理を犯罪学と社会構造から考察。病気説を否定し、断罪の不平等と“強さこそ価値”に至った悲劇の理由を読み解きます。
鬼滅の刃 上弦の鬼の裏テーマは“負の感情が人間をどこまで変質させるか"。決して病気や疫病などではない。そして、負の感情の多くは「社会構造の闇」から生まれます。吾峠先生は、作品を通して人間社会の理不尽さや無力感を描きたかったのではと考えています。
上弦の鬼の中では"女は喰わない"、"喰うよりも鍛錬の時間の方が長い"など極めて異質な存在である猗窩座。「強さこそ価値」というその信念は人間時代の深すぎるトラウマによるものでした。鬼殺隊に敗北し、潔く自分の過ちを認めながらも、井戸に毒を入れた鬼畜共と等しく地獄に堕ちるほかありませんでした。これほど無情なことがあるでしょうか。
※当ブログは考察系ブログとは無縁ですが、筆者あきたりょうが鬼滅の刃にハマりすぎた結果爆誕してしまったなんちゃってお茶濁し考察コンテンツです。
※アニメを通り越して原作のネタバレを盛大に含んでおりますのでその界隈の方はご注意ください。
「上弦の鬼=病気説」はもう古い
何度目かわからないお浚い🍵
巷ではこんな噂があり、あきたりょうはこちらの説を真っ向から否定させて頂いております。
- 上弦の壱 黒死牟 … 黒死病(ペスト)
- 上弦の弐 童磨 … 結核
- 上弦の参 猗窩座 … 麻疹
- 上弦の肆 半天狗 … ハンセン病(らい病)
- 上弦の伍 玉壺 …アメーバ赤痢
- 上弦の陸 妓夫太郎・堕姫 … 梅毒
猗窩座の名前が、麻疹の古い呼び方が「あかもがさ」に似ているだとか、猗窩座の紋様が古くに使われた魔除けの紋様に似ているだとか、根拠が薄すぎて否定するまでもないような気はします。
猗窩座の名前の由来
猗窩座の過去回想のタイトル「役立たずの狛犬」と解釈するのが一番スッキリ。
- 猗 … 去勢された犬(けもの)
- 窩 … 穴蔵、すみか
- 座 … 座った(まま)👉️穴蔵に座ったままの去勢された犬=役立たずの狛犬
- 狛 … 狛犬(神社の番犬のこと)
- 治 … (父親を)治す、(自分自身が)更生する
ちょっと拡大解釈ですが、狛治という名前を捨てて(=守るべきものも更生することも捨てて)猗窩座という名前を得た(=本物の役立たずの犬になった)と解釈することもできなくはない。
猗窩座の紋様
鬼滅の刃18巻の話間ページに「設定こぼれ話」として“まっとうに生きるよう父に言われたが 鬼にされ罪を重ねていったせいか 罪人の刺青が鬼の紋様と混ざり合い 全身に広がっているように見えます"と吾峠先生より言及があります。
上弦の参 猗窩座の加害者心理
※猗窩座は、上弦の鬼の中でもかなり明確に心理描写がされています。原作で明確に触れられている心理描写については詳細には触れません。「猗窩座の強者至上主義の理由」「猗窩座が本当に殺したい弱者は自分自身」、ついでに「剣術道場の跡取り息子はなぜ井戸に毒を入れる凶行に及んだのか」。この辺りは気が向いたら個別に深堀りしてみたいと思います。
掏摸(スリ)は"父親に薬を持って帰るため"
江戸に生まれた狛治は、病に苦しむ父親に薬を届けるために掏摸(スリ)を繰り返していました。「貧乏人は生きることさえ許されねえのか」と胸中で語っているように、貧困の中に生まれ育ったことが予想されます。
“強くならなければ盗んだ財布を持って逃げきることができないし、強くならなければ返り討ちに遭っても勝てない、強くならなければ奉行所に捕まって刑罰を喰らう"。猗窩座の強さへの執着の根底は幼少期のトラウマが背景にあります。
一般ひずみ理論(GST):"自暴自棄"による喧嘩と復讐
父親を助けたい想いで行った蛮行は、結果的に裏目に出ることになりました。父親は罪悪感と自責の念から首を吊って自害してしまいました。
狛治は喪失感から自暴自棄になり、所払いされた先の町で大人と喧嘩。喧嘩の発端は何だったのかは描写がありませんが、大切な人を失った心のひずみ(ストレス)によって生まれた怒り・絶望が適切に処理されず、暴力や犯罪などの逸脱行動に転じる一般ひずみ理論(GST:General Strain Theory)という犯罪学モデルによって説明できます。
同じく慶蔵・恋雪が毒殺された後に起こした「剣術道場67人惨殺事件」も、大切な人を失ったことで狛治の心に大きすぎる怒りを生み、人との絆を失ったことで、地獄絵図を生み出したと言えます。
狛治の過去は、多くの犯罪理論が想定するひずみの上限を超えており、一般論に紐づけるのもためらわれるほど、あまりに悲劇的です。
社会的絆理論(Social Bond Theory):加害者として完成した理由
狛治は、鬼舞辻無惨に有無を言わさず鬼化されたことにより猗窩座となり、加害行為を繰り返して罪を重ねていきました。これは、人との絆を失ったことで孤立し、無敵の人となる社会的絆理論(Social Bond Theory)と解釈すると面白いと思います。
これは、「犯罪(加害行為)を抑えるのは、実はモラルよりも人との絆」という考え方で、人との絆(つながり)が無いことによって「将来を失う怖さが無い」「評判も名誉も関係ない」といった失うものがない状態が作り出された結果、重大な犯罪を引き起こすリスクが高まるという犯罪学モデルです。
猗窩座は、人間時代に大切な人を2度で3人も失ったことで人との絆を完全に喪失しました。猗窩座が自らの思想を押し付け、加害行為を繰り返しても罪悪感を感じにくいのは、鬼化による道徳崩壊ではなく、罪悪感を感じる土台が消えているからなのです。
社会的に孤立した「失うものが何もない、いわゆる“無敵の人"」ほど恐ろしい犯罪を起こすというのは、比較的近年、社会構造の欠陥として声高に叫ばれるようになったような印象があります。
猗窩座だけは、"地獄行き"がやるせない ── 違和感の正体
玉壺→地獄行き→わかる。
半天狗→地獄行き→わかる。
井戸に毒を入れた跡取り息子たち→地獄行き→大変よくわかる。
でも、猗窩座の地獄行きは、なんだかやるせない。
盗みを繰り返したのは父親に薬を届けるためだった。掏摸(スリ)の入れ墨があろうとも、"罪人の狛治"は慶蔵がやっつけてくれた。父親の遺言通り、やり直すために努力をした。慶蔵から「道場を継いで欲しい」と言われた時、恋雪との婚約が決まった時、やり直そうと決意した。命に代えても2人を守りたいと思った。誰よりも強くなって一生恋雪を守ると誓った。
その矢先に湿っぽい劣等感と腐りきった羞恥心を振りかざした"毒井戸の鬼畜共"による毒殺事件。これで心が壊れずにいられましょうか、神様、仏様。
善人であろうとした狛治も、毒井戸の鬼畜共も、等しく地獄へ堕ちるのです。これには多くの読者がやるせない思いを感じたのではないでしょうか。
“断罪の不平等"という社会構造の闇
父親を失くした直後の狛治はこんなことを胸中に秘めていました。
こんな世の中は糞くらえだ
狛治(鬼滅の刃 18巻)
どいつもこいつもくたばっちまえ
なんでこんな糞みたいな奴らが生きてて
俺の親父が死ななきゃならねぇんだ
吾峠呼世晴
さらに、19巻では伊之助に「地獄を見せてやる」と言われた童磨がサラッとこんなことを言っています。
この世界には天国も地獄も存在しない どうしてかわかる?(要約)
現実では真っ当に善良に生きてる人間でも理不尽な目に遭うし
悪人がのさばって 面白おかしく生きていて甘い汁を啜っているからだよ天罰はくだらない だからせめて 悪人は死後地獄に行くって
そうでも思わなきゃ 精神の弱い人達はやってられないでしょ?つくづく思う 人間って気の毒だよねえ
童磨(鬼滅の刃 19巻)
吾峠呼世晴
童磨は人間社会の理不尽さを的確に指摘し、天国も地獄も存在しないという持論にそれっぽい理由付けをしています。(※公式ファンブックによると鬼滅の刃の世界線には地獄が明確に存在しているようです。)
生前には無差別に理不尽が降り注ぎ、死後は過程も事情も無視した一律判定で天国か地獄かの裁きを受ける。行為とその結果だけを切り取り、そこに至るまでの過程を考慮せずに断罪が行われる。これが、狛治が地獄へ行くことに対する違和感、"断罪の不平等"です。
“それでも"吾峠先生は狛治を地獄に落とした
もちろん、狛治の頃に67人の人間を殺害したこと、猗窩座となり何百人(推定)もの人間を殺したことは決して無視できるものではありません。
しかし感情論でものを言えば、「先に手を出したのは"毒井戸の鬼畜"」「無惨によって"有無を言わさず"鬼にされた」「鬼になってからは生前の自我も記憶もない」こともまた、無視したくない過程であることは間違いありません。猗窩座は一貫して、被害者だったのです。
“それでも"、吾峠先生は狛治を地獄に落としました。それは、狛治が、猗窩座が、超えては行けない不可逆な一線を超えたからに他なりません。
冷たい?そう、冷たいですね。それが吾峠倫理であり、社会の理不尽の縮図そのものであり、このやるせなさの最も大きな理由です。
同じように理不尽に見舞われた、炭治郎を始めとする鬼殺隊側のキャラクターたちと比べてしまえば、狛治もまた辛抱できない弱者だったことに変わりはない。吾峠先生は作品を通して、一貫した境界線を丁寧に描いていました。
こんな理不尽が世の中にあっていいはずがないと思う傍ら、理不尽は近かれ遠かれそこらじゅうに転がっているのです。
断罪の不平等は日常にも転がっている
被害者がやり返した瞬間喧嘩両成敗になる、いじめっ子といじめられっ子。
どんなに虐げられても反発すれば生活基盤を失う、パワハラ上司とその部下。
執拗なラフプレーにも、やり返せばレッドカードをもらう、スポーツの試合。
ルールの上では正しいかもしれない。でも、先に出した拳も、殴り返した拳も、等しく断罪の対象である。
結局、強くなければ何も守れない。弱いままでは奪われて終わる。
これは、まさに猗窩座が何百年かけて体現した「強者でなければならない理由」です。吾峠先生は、猗窩座の悲劇の裏に、こういう社会の理不尽への皮肉をも描きたかったのではないでしょうか。
まとめ:本当の鬼ってなんだろう?
毒井戸の鬼畜と狛治の構図では、狛治が鬼化され猗窩座となりました。
でも、鬼畜と表現した通り、この物語の"本当の鬼"は人間です。
猗窩座の悲劇の物語は、肉体だけでなく、精神も強くなければいけない理由を教えてくれました。
何とも後味が悪く、虚しく、儚い、それでいて尊い物語でした。
おまけ
実在する犯罪史における思想犯やシリアルキラー、社会に衝撃を与えた事件の犯人に、
- 出生の不平等
- 無視できない不幸の連続
- 同情に値する報復動機
- 選択する余地のない環境
があったとしたら、あなたはその犯人を許せますか?
もう一度やり直させてあげたいと思えますか?
社会とは、そういうものです。
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※当ブログは考察系ブログとは無縁ですが、筆者あきたりょうが鬼滅の刃にハマ…
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